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岩国 錦帯橋

錦帯橋 不落名橋の考案
岩国の城下町を流れる清流『錦川』には、幾度も架橋がなされた。しかし、増水時の水流の激しさは想像を絶し、橋はことごとく流失します。渡し船だけに頼る交通の不便と増水桙フ危険は大変なものでした。
「流れない橋を架けたい。」
それは、歴代藩主同様、三代藩主『吉川広嘉(きっかわひろよし)公』の切なる願いでした。
そのためには橋柱のない橋を架けるか、橋柱そのものに工夫を凝らすしかない。そこで広嘉公は、甲州街道の渓谷に架かる橋柱の無い橋『猿橋』に学びます。病弱であった藩主広嘉公は、病気療養の際、明の帰化僧で医師でもある『独立=どくりゆう』と出会い、治療を受けます。
明文化に関心のあった広嘉公は、『独立』の所持する『西湖遊覧潤誌』という書物に興味を抱き、これを拝見する機会を得ました。
〔そこには湖に点在する島伝いに石橋が架かる挿図があった〕
『これだ!』 一つの妙案が閃く。構想は決まった。錦川に小島の様な橋台を造り、そこに頑丈なアーチ型の橋を架ける。試作と失敗を重ねた末、延宝元年(1673)築城技術と組木の技法を最大限に生かした希代の名橋が完成したのでした。
世界遺産の流失
不落名橋も戦中戦後には手入れが行き届かず、加えて戦後の海上埋め立てに伴う周辺の川砂の大量採取‥‥そして昭和25年(1950)9月14日、岩国地方を襲った『キジヤ台風』 激しい暴風雨は、やがて錦川の異常な増水を来し錦帯橋を襲う。『錦帯橋を守れ。』市民は六尺樽に水を入れ、錦帯橋・橋上からの圧力で流失をくい止めようとしました。
しかし、午前9時40分、先ず3番目の橋台が亀裂を生じ崩壊したため第3、第4橋が流失・・・・かくして風雪に耐え276年、「国宝に」との話もあった名橋は、多くの市民が見守る中で濁流に飲み込まれていきました。
名橋再び
市民にとって、象徴であり誇りでもある錦帯橋を失ったことは、大きな悲しみでした。けれどもそのショックから立ち直るのも早く、一週間足らずで市議会が再建声明を発表、直ちに全力をあげた再建運動が粘り強く展開されました。そして翌年2月22日から、延ベ6万9千人の労力、1億2千万余りの巨費を投じての大事業が始まりました。再建の調査に入った技術者達は、「錦帯橋の工法は現代力学の法則に合致していて、何ら改善の余地は無い。」と結論したほど、その構造は精巧なものでした。
こうして約2年の歳月を費やし、歴史的名橋は蘇り、昭和28年1月15日、渡り初め式を行い、現在に至ります。
流失の前後、国内では「日本百景」の選考か行われていました。錦帯橋は再建運動の最中にありましたが見事に「日本百景第一位の地」に選ばれたのでした。
この決定に選考地から、「流失した建造物を選考対象とするのはおかしい」とのクレームがありました。これに対する主催者側の見解は、「錦帯橋は必す元の姿で再建されると確信しており、この選考結果に問題はない」と。この栄誉は、再建運動の大きな励みとなりました。
五連の名橋『錦帯橋』
河原から錦帯橋本体の構造部(裏面)を見上げると、そこには巻き金とカスガイを使用した『木組の技法』を見ることができます。幕府の『一国一城の制』により、天主を破却された岩国藩。藩の象徴を失った岩国藩にとって、錦帯橋は城に代わる新たな象徴、正に『水平の天主・水平の塔』でした。
平成の架替
平成13〜15年度の渇水期(冬期)に半世紀ぶりとなる「錦帯橋・平成の架け替え」が行われます。この度の架け替えは、現錦帯橋の木造部分(橋脚部分は除く)を現橋の形・構造通りに原形修復します。
総事業費約26億円を要する大事業となります。
                    
参考資料  岩国市観光課パンフレットより







期間中は、架替部分に迂回路が設置され、普段目にすることのできない挙_から世界に誇る木組みの技、現橋の解体・架橋作業の様子を間近で見学しながら渡橋することができます。