壇の浦古戦場跡 下関市御裳川町
寿永4年(1185)3月24日源義経は、ここで平家を全滅させた。
御年わずか8歳の安徳天皇は按察使局(あぜらのつぼね)にいだかれ、
二位の尼は神璽(しんじ)と宝剣を持ってともに入水した所である。
源氏と平家両軍の戦闘は24日の早朝から開始された。
始めは平家の旗色がよく、義経の船をめざして殺到した。
その攻勢に圧迫され、幾たびか危機に逢つたが、源義経は一計を案じ、
全軍に命じて敵の水手・舵取りをねらい征矢を集中した。
平家方はこの奇襲によって漕手を失い、方向が定まらず、
第一・第二陣とあいついで戦場を離脱した。
さらに午後になると、海峡の潮流は外海にむかって西に変わり、
源氏方はこの潮に乗って平家一門の船団に肉迫した。
平家は敗れて壇ノ浦に追いつめられ、御裳川の沖合で全滅した。
平宗盛・清宗父子は死におくれて生捕りになったが、経盛・教盛・知盛・
資盛・有盛・行盛以下、平家一門は入水して、ここで最期をとげた。
とくに幼帝の入水の模様を聞かれた後白河法皇は深く御心をなやまされ、
やがてその菩提を弔うために、檀の浦のちかくに阿弥陀寺が建立された。
明治になって寺号を廃し、赤間官(現在は赤間神宮)と改めた。
